戦後労働運動の幕開け(昭和20年)

 敗戦の混乱のなかで、占領軍は日本民主化政策の一環として、労働組合結成を積極的に助成した。
 労働者は生存の危機にあったため、「仕事よこせ」「賃金上げろ」の切実な要求があり、戦後の労働運動は華々しく始まった。

三菱長崎造船労働組合結成(昭和21年1月19日)

 昭和20年8月9日、原爆投下という未曾有の不幸から労働者の生活確保と産業の復興を目指し、三菱長崎造船労働組合は結成された。

 結成大会は、木工場2階(現在の向島H棟)で行われた。しかし、結成後は共産党の組織拡大の影響を受け、次第に左傾化の道をたどった。


3会社への分割(昭和25年)から3重工合併(昭和39年6月)

昭和25年1月「企業再建整備法」により、三菱重工社は「東日本重工・中日本重工・西日本重工」の3社に分割された。
その後(昭和27年6月)スリーダイヤの使用が認められ「三菱日本重工業・新三菱重工業・三菱造船」と改称し、それぞれが独自に運営された。

昭和39年6月「開放経済を迎え、国際競争に生きぬくべき企業の体質改善を行う」ことを目指し、3重工は「三菱重工業」として合併し、わが国最大の企業として再出発した。
これは、戦後最大の歴史的合併と報じられた。


階級闘争・スト万能主義

昭和21年の組合結成から共産党の指導を受けて次第に左傾化していったが、昭和25年には、当時全く権限のなかった長崎造船所長に賃上げなどの4項目の要求を行い、6か月の大争議をおこした。

さらに、昭和35年の「安保闘争」を境として、その活動は激しくなり「組合活動はすべて労使の対決で、労働者の階級性が強まるものでなければならない」との思想のもと「独占資本との対決」を前面に出し、組合要求のほとんどにスト権を確立した。

「カラスが鳴かない日はあっても、三菱にストライキのない日はない」と評されるほど三菱造船のストライキは“有名”であったが、指導者は「成果なき責任はすべて会社にある」として、自らの責任は回避した。


民主化グループ「刷新同志会」発足(昭和34年)

階級闘争主義を憂う真面目なグループは「何のためのストライキか?このままでは働く場所を失い、働く者の幸福は望めない」として、民主化へ向けての闘いもまた進めていた。

民主化グループは、昭和34年「刷新同志会」を発足させた。

三菱支部第32回定期大会「組織統一準備委員会設置」を否決!!

昭和39年6月の3重工合併にともない「同一企業内に働く労働者は1つに団結し、1つの交渉体制をとるべきである」との声は高まり、昭和40年2月、本社労組を含む4労組は「三菱重工4労組協議会」を発足させた。

4労協は「組織の統一準備会」を発足させることをそれぞれの組合が確認することとしたが、三菱長船分会は、「統一は労資協調路線である」「あくまでも階級闘争を貫く」として、第32回定期大会において議案を否決した。

ここに4労組の組織統一の方針は、暗礁に乗りあげることとなった。


新組合 長崎造船労働組合結成(昭和40年12月7日)(現・長船支部)


結成準備活動進む

「もはや全造船三菱支部の内部からの民主化は不可能」と判断した民主化グループは、「新組合結成」についての気運を高まらせていた。

そして、長船を除く3労組の動向も見極めつつ、その準備活動を着々と、しかも極秘裡に進めていった。(海員組合事務所(大波止)を借用)


歴史的な新組合結成(昭和40年12月7日)

ついに「決断」の時を迎えたのである。

結成日は「昭和40年12月15日」と決めて諸準備を進めていたが、その動きを察知した分会は、12月15日に臨時大会を開催し、それを妨害しようとした。

これに対し民主化グループは、結成日を12月8日に変更し、最後の準備作業に入った。

しかし、またもその動きを知った分会は、12月7日の朝ビラでそれを報じた。

民主化グループは「秘密がもれた以上12月8日はダメだ」と判断し、「本日(12月7日)決行」を決断した。

12月7日夕刻、希望と興奮に満ちた2,007人の同志は、ここに歴史的な新組合結成を成しとげ、日本の民主的労働運動の大きなうねりへの足がかりをつくったのである。

これは日本の労働運動史上に残る快挙として報じられ、しかも一滴の血を流すことなく行われたのである。

全造船の最強部隊として階級闘争の火を燃やしてきた三菱支部は、ここに崩壊の道をたどることとなった。

組合事務所(昭和40年12月11日開設)

組合結成直後の12月11日、活動の拠点である組合事務所を水の浦町の菱社倉裏に開設した。
空調をはじめ設備は不十分であったが、希望の熱気が充満していた。



組合員過半数突破

新組合結成時2,007人であった組合員は、2週間たらずで過半数を突破。
さらに2か月後には、1万人を越す大組合へと発展した。

そして、重工7万4千人の大同団結(組織統一)へ向けて、その基礎づくりは着々と進展したのである。

弱体化した旧労(全造船三菱支部)

新組合が結成されると、長船分会や全造船、社会党・共産党、県評、地区労などは新組合の誹諦中傷、デマ宣伝に明けくれた。

しかし、目ざめた組合員は、旧労の「階級的利益を守ろうとして独善と無謀に走った階級闘争至上主義の誤り」を十分に知っており、長船分会はその機能を完全になくしていた。

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